年末年始、少し長めの休みを取って、瞑想の修行に行ってきました。

こちらの「日本ヴィパッサナー協会」という組織が主催する10日間のコースです。

「ヴィパッサナー瞑想」というのですが、それが具体的に何を指すのかは上のリンクに説明がありますので、関心のある方は読んでみてください。

 

瞑想を学びにいった理由

中学生のときに比叡山のお寺でちょっとした修行体験をしたり、大学生のときに「仏教学」の授業を履修したりといった縁があり、仏教にはそれとなく親しみを感じていました。手塚治虫の『ブッダ』にも大きな感銘を受けました。

大きなきっかけとなったのは2年ほど前に出会った『仏教思想のゼロポイント ー「悟り」とは何かー』(魚川祐司 著・新潮社)という一冊の本です。

仏教を実践する者が最終的に目指す「悟り」や「涅槃」という境地は、果たしてどういったものなのか。言葉では到底語ることのできない境地であるとは何となく知ってしましたが、著者(大学で仏教を研究し、実際にミャンマーなどで実践もされている方)はこの問いに真正面から取り組み、言葉にできるギリギリのところまで論を展開しています。

思い切りかいつまんでいうと、ブッダはわれわれ凡人が次々と生み出す「物語」の世界を離れ、物事をありのままに見られるようになれ、と説いています。

「物語」というのは「幻想/ファンタジー」とも言いかえられると思います。

ただの肉の寄せ集めであり、皮一枚めくれば内臓や糞尿が詰まっているだけの異性に、わたしたちは幻想を投影して「美しい」と感じ、運命を想定したり、渇望し、執着したります。

自分自身を含め、何一つとして移り変わらないものはないはずのこの世のありとあらゆる現象を、どうにかして思い通りにしようとあがき、思い通りにならなければ苦しむ。思い通りになったらなったで、それで決して満足することはなく、次から次へと欲望を燃やし続ける。

それを延々と延々と、繰り返しているのがわたしたちです。輪廻があるとすれば、この人生だけでなく、生まれる前の前世から、そして死んだ後の来世でも、ずっと、ずっと、ずっと。

「諸行無常」と、言葉で理解するのはたやすい。

しかし、それを腹の底から理解し、振る舞えるかというのはまったく別問題です。

「しょせん誰しも老いて病んで死んでいくのだ」と知っているのに、わたしたちは他者に恋い焦がれ、欲望に身を焦がし、肉親が死ぬと嘆き悲しみます。

つまり「悟り」とは「この世はけっきょく諸行無常なんやで〜」と「理解する」ものではなく、修行によって体で「体得」するべきものです。教本を読むだけで泳げるようにはならないのと同じ、料理の本を読むだけで北京ダックの味はわからないのと同じで、実際に体を使わなければ、「それ」は絶対にわからないものなのです。

そして、ブッダは実際に2500年ほど前にその「悟り」に達し、自分が悟りに至った方法を人々に伝えました。これが今日世界各地で信仰され、実践されている仏教の核となりました。

仏教とはお経を唱えて仏様にお祈りするものではなく(そういうのもありますが)、ただただ苦しい修行をして精神を鍛えるためのものでもなく(そういうのもありますが)、自分を取り巻く世界そのものの見方を変えうるものだということを、この本から学びました。

だから、「瞑想に行く」というと「精神力が強くなるん?」とか「なんか悩んでるん?」とか、尋ねられますが、精神力を鍛えることや悩みを解消することが一番の目的ではありません(結果として強くなったり、悩みが消えるとは思います)。

自分が見ているこの世界が、まったく異なる様相をもって新たに立ち現れてくる可能性がある、その片鱗だけでも見てみたい、というのが、わたしが今回瞑想の修行をしにいった一番の理由です。

結論からいうと、10日やそこら修行したところで人生が変わったり、高貴な人格になったり、見ている風景が180度変わったりはしません。

しかし、そのきっかけはつかむことができました。

 

具体的に何をするのか

瞑想センターでは計12日間滞在します。うち修行は10日間。

その間、センターの敷地を離れることは許されません。男女合わせて50〜60人で集団生活をします。(男女は厳格に分けられています)

「聖なる沈黙」といって、他の人とは会話をしてはならず、目も合わせてはなりません。ジェスチャーなども不可。当たり前ですが携帯電話などは預け、読んだり書いたりすることも禁止。ありとあらゆるコミュニケーションができません。(トラブルが起こった場合は管理者に相談でき、瞑想指導者に質問することもでます)

また、

生き物を殺さない。
盗みを働かない。
一切の性行為を行わない。
嘘をつかない。
酒・麻薬の類を摂らない。

という戒律の遵守も求められます。一時的な出家ですね。

そんななかで、1日に10時間、瞑想をします。こんなスケジュールです。

4時: 起床
4時30分~6時30分: 瞑想
6時30分~8時: 朝食と休憩
8時~9時: グループ瞑想
9時~11時: 瞑想
11時~13時: 昼食・休憩
13時~14時30分: 瞑想
14時30分~15時30分: グループ瞑想
15時30分~17時: 瞑想
17時~18時: ティータイム
18時~19時: グループ瞑想
19時~20時30分: 講話
20時30分~21時: 瞑想
21時30分: 消灯

基本的に「瞑想ホール」という場所でみんな一緒に瞑想しますが、自室で行ってもかまいません。ただし、「グループ瞑想」の時間はかならずホールにいなければなりません。また、途中からこのグループ瞑想は「決意の時間」と呼ばれるようになり、決して目を開けてはならず、体も動かしてはならない時間になります。

ただし、目を開けたり体を動かしたからといって「(デデーン)岡本、アウトー」と言われて尻を叩かれたりすることはありません。あくまでもそのように努力することが求められるだけです。

瞑想は自己流でやみくもに精神集中するのではなく、どこに意識を向けるのか、何に気をつけるのかといった内容が音声で流れてきますので、それに従って意識を使います。この指導はかなりきめ細かく、これまで本やDVDで独習してきたわたしには大変ありがたいものでした。

 

瞑想のしかた

何か難しい操作はまったくありません。

「集中し、自分の体に起こる『感覚』に気づいていく」

本当にそれだけです。

やることはは簡単なのに、難しい。

最初は集中力を高める瞑想をします。鼻と唇の間に意識をとどめ、ひたすら、ひたすら呼吸に集中します。

4日目から、いよいよ本格的なヴィパッサナー瞑想に入りました。といっても、やることは同じで、呼吸とともにこんどは頭のてっぺんからつま先まで、順番に少しずつ、体に生じては消えていくさまざまな感覚をとらえていきます。

それを、ひたすら最後までやる。それだけです。

 

妄想との戦い

わたしは家でも1日10分ほどずつ瞑想をしていたのですが、すぐに寝落ちしてしまっていました。

ただ、ここではさすがに緊張感がありますし、寝ている場合ではありませんので、不思議と眠くなる機会はそれほどありませんでした。

しかし、つらかったのは頭にどんどん湧いてくる思考との戦いでした。

脳というのは外部からの刺激が乏しくなると、どんどん勝手に暴走しはじめます。ふと気づくととんでもないところへ思考が飛躍しています。

「家が火事になっていたらどうしよう」とか「帰ったらトラブルが起きていて山ほど電話やメールが来ていたらどうしよう」とか、その具体的な状況まで、実に事細かくディティールを生み出し、勝手に恐れ、不安になっている自分がいました。

あるいはその逆で、起こるはずもない幸運が降ってきた妄想に励んだり(めちゃくちゃモテる、とか)、昔の恥ずかしい出来事を思い出したり、と、思考は縦横無尽に暴れまわります。気がつくと考え事で1時間が経っていた、ということも一度や二度ではなかったことを告白しておきます。

 

瞑想中に起こったこと

ヴィパッサナー瞑想の座り方は自由で、結跏趺坐に組む必要はなく、あぐらでかまいません。センターは京都の外れの山奥にありますので、「寒いのかな?」と心配していましたが、暖房もついていて、柔らかいクッションや暖かな毛布も用意されていたので、寒さに関して不都合はありませんでした。

ただ、いくら座り方が自由だといっても、同じ姿勢を続けているとお尻は痛くなってきます。最初のうちは耐えられなくて何度も姿勢を変えたり、体育座りで瞑想したりしていました。

それが、5日目ごろだったでしょうか、瞑想をしているうちに、ふっと自分が自分から離れるような感覚がありました。といっても幽体離脱などではなく、自分はその場にいます。そして、「顔がかゆい」とか「服が肌に触れているな」といった体の感覚もちゃんとあります。

何よりも強いのは、やはりお尻の痛みでしが、それがいつの間にか「痛いのに、痛さを放っておける」感覚になりました。痛さがあるにも関わらず「ああ、岡本は痛がってるんだな」と、どこか突き放して見ていられる感覚。

もしかしたら「客観的に見られる」というのはこういうことをいうのかもしれません。

あとは腕や足にビリビリとした細かい振動が生じて、なんとも言えない心地よい感覚に全身が包まれるような時間もありました。

しかし、こういった心地よい感覚も永遠のものではなく、「無常」のものですので、これが瞑想の目的ではありません。心地よさにはまり込むこともまた、戒められます。

このようにして、絶え間なく、自分の体と心のあり方に気づき続け、そしてそれが生まれては滅していく無常のものであることを自覚していく、そのような修行です。

10日間で、その一端は垣間見ることができたように思います。

 

帰ってきてから

無事に日程を終えて”出所”したときは頭がぼうっとして、病院を退院したばかりの患者のようでした。瞑想のコースは「心の手術」と呼ばれるくらいですから、当然かもしれません。

そして日常に帰ってきて、相変わらず執着と渇望にまみれた日々を送っていますが、それでも「執着している」とか「腹を立てている」とか「悲しんでいる」など、自分の心の動き気づいていられる時間は増えています。

10日間の集中コースといっても、たった100時間だけのこと。外国語の学習でいうと毎日1時間やって3か月ちょっとが経った程度、というところですから、自由自在に話すことはおろか、文法だって発音だってままならないよちよち歩きの時期にすぎません。

大切なのはこれから日常に瞑想を組み込み、少しずつ前進していくことです。

努力は自分自身で行うものですが、そういった環境に飛び込むこともまた、必要です。ブッダは「犀の角のように、ただ独り歩め」と言いつつ、共に修行する仲間の存在の重要性も指摘しています。

瞑想自体はきわめてシンプルなものですが、正しい方法を指導してもらい、体で覚え込ませる機会が得られたことは大変貴重なものでした。

仏教について少しでも興味をもった方は、冒頭に紹介した『仏教思想のゼロポイント』でもよいですが、同じ著者による以下の書籍を読まれるとよいと思います。これまでの仏教に対するイメージが覆ることうけあいです。