ちょっと縁がありまして、ときどき絵画教室におじゃましています。

その教室では美大・芸大を目指す受験生の指導を主に行っていて、高校生や浪人生たちがバリバリともの凄いデッサンを描いていく姿を目の当たりにします。のほほんとやってきた自分とは完全に別世界なのです……

そういった訓練をしてこなかった人間から見ると、真っ白な紙に迷いなく(実際は迷っているのでしょうけど)どんどんと目の前の物体が同じ姿で立ち現れてくる様子は、ほとんど魔法のように思えます。

受験生たちの姿を見ていると、「デッサンってディクテーション(書き取り/听写)に似ているよなあ」と思います。

デッサンは、目の前の物体を紙に写し取る行為。

ディクテーションは、耳で聞こえた音声を紙に写し取る行為。

どちらも、対象を感覚(視覚/聴覚)で認識し、理解、再構成した後に再出力するという経過をたどります。

わたしたちの目は、ありのままの世界を眺めていて、答えは目の前に存在するはずなのに、形を取ったり、陰影をつけたりするといった訓練を経なければ、紙の上にそれを再現することはできません。

わたしたちの耳は、ありのままの音を聴いているはずで、答えは耳に入ってきているはずなのに、発音を学んだり、文字や綴り、文法を学ぶという訓練を経なければ、紙の上にそれを再現することはできません。

考えてみると、本当に不思議です。なぜわたしたちは、目の前にあるもの、耳で今聴いたはずのものさえ、まともに再現できないのでしょう。

わたしたちの手足や口、耳は世界とは直接につながっているのではない、ということがわかります。まず、アタマに認識の仕方を教え込み、反復練習をすることで、ようやくわたしたちは世界を自分の体によって(不完全ながら)再現することができるのです。

「絵が上手くなりたい!」と言っている人が、デッサンもまともに練習せずに、絵を「観る」ことしかしていなかったり、オリジナルの作品ばかり描いていればどうでしょう。上手くなるはずがありませんよね。

外国語が上手くなりたいのであれば、やはり「デッサン」の訓練が必要です。それは聞こえてくる言葉を注意深く聴き、辞書を引き、正しいつづり(あるいは、正しい字)で書くことです。

美術のデッサンはアナログで「絶対に正しいもの」にはなりえません。写真でもない限り、どこまで細かく描いても「完全に現実と同じ絵」というものは存在しえません。

それに対し、言語というのはデジタルなもので、記号、つまり約束事ですから、絵画に比べると正誤の判定がしやすくなります。絵であれば、同じ木を描いてもAさんとBさんとでは異なるものに仕上がりますが、「木」という字を書くのであれば、楷書で書こうが行書で書こうが、上手であろうが下手であろうが、同じ「木」という概念を表します。

人間が実際に話す言葉には、口調や息づかい、声色などの、文字情報にはできない要素がたくさん含まれていますが、文字で言語を書き留めるときには、そういった個人的な要素やその場限りの要素は排除してよい、という決まりになっています。ですから、言葉の書き取りは、デッサンで絵を描くよりもはるかに容易なはずなのです。

まだ十代の受験生だって、1枚何時間もかかるデッサンを、何十枚、何百枚も黙々と描いているのです。

外国語の学習者だって、デッサンよりもはるかに簡単なディクテーションの100や200、こなして当たり前ではないでしょうか?