中国語初級者に紙の辞書を引けというのは酷な話か

小学館の『中日辞典 第3版』が発売された。

やれ嬉しやと思い、さっそく購入して読んでいる。

いろいろなところが変わっていて、コラムや文法解説も充実している。読みやすくて楽しい内容になっている。新品の辞書ならではの、紙の匂いもたまらない。

僕は、一覧性にすぐれ、目に優しい紙の辞書を愛用している。

しかし、初級者が中国語辞典を引くのはかなり大変。

漢字は表音文字(ローマ字のように、音を直接表している文字)ではない。

字音がわからなければ、部首や画数から引かなければならない。

これがとっても面倒なのだ。

日本語の音訓でも引けるようになっているとはいえ、二つの段階を経なければならないのは、いかにももどかしい。
バイクだって二段階右折はわずらわしいのだ。

僕自身は、ある程度の期間中国語を勉強してきたこともあって、大抵の字音は頭に入っているので、いきなり目標とする単語にたどり着くことができる。

タイムを計測しているわけではないが、電子辞書で調べるのとそう変わらないスピードで引くことができていると思う。

しかし、知らない字が出てきた場合は、つくりから音を推測するか、それが当たらなければパソコンやスマートフォンで手書き入力して音を調べている。紙の辞書の索引はもう長いこと使っていない。

自分の学生には「できるだけ紙の辞書を使ってください」なんて言っているが、紙の辞書しか存在しなかった昔ならいざしらず、代替手段がある今は少し過酷な要求なのかもしれない。洗濯機があるのに手洗いさせている、みたいなものだろうか。

しかし、自分の手で辞書というモノに触れ、ページをめくって調べる、という行為が理解や記憶を助けるということはあるだろう。

目指す語が全体のどのあたりにあったのか、見開きのどのあたりにあったのか、私たちは文字情報以外の情報を無意識的に拾い、関連づけている。

棋士の羽生善治氏も、このように述べている。

本当に大切なデータで、正確に覚えておかなければならない時には、ただパソコンの画面で見るだけではなく、盤と駒を出してきて実際に並べてみるとか、ノートに付けるとか、誰かに話すとかしています。

つまり、大切なのは五感を使うということなのではないかと思っています。

人間はやはり視覚から入って来る情報が非常に大きな部分を占めているので、それは非常に便利なのですが、簡単に入ってきたものは簡単に忘れてしまいます。

そこで手を使うとか、耳を使うとか、口を使うとか、何でも良いのですが、語感を駆使することで記憶は長きにわたって残り、継続するのではないかと思います。
『羽生善治 闘う頭脳』文春文庫 p82)

とはいえ、初級段階で紙の辞書に触れることをしなかった学習者が、後になって紙の辞書を手にするだろうか。
「人による」としか言えないのだろうが。

今は、ネットによって無料でいくらでも膨大な情報に触れることができる。

モノとしての辞書に思い入れを持たない人にとって、紙の辞書は重くてかさばるし、高い(僕は決して高いとは思わないが)。

紙の辞書を使う人は、レコードコレクターのような存在になっていくのだろう。

よく似ているのが音楽。

僕も音楽は好きだが、音という情報にしか興味がないので、レコードはもちろん、CDというモノには思い入れはない。

よほどのことがないかぎり、もうモノという媒体で音楽を買うことはない。
これと同じだ。

(でも、スピッツの『醒めない』は買ってしまった。最高だった。)

果たして、『中日辞典 第4版』が書店に並ぶ日は来るのだろうか。

あるいは、今の私たちには想像もつかないような形で世に出るのだろうか。