『みんなの道徳解体新書』という本を読みました。
もともとこの著者の見解には大いに賛同するところがあり、著書の多くを読ませていただいているのですが、「パンを和菓子屋に修正」で道徳業界が盛り上がりをみせているいま、本書を読んでみることにしました。
「最近は物騒な世の中になった」や「日本人のモラルが低下した」などの、近ごろ巷でよく耳にするセリフは、すべて誤りであることを、データにもとづいて淡々と指摘されています(この方は社会学者ではないかと言われています)。
(同じようなセリフに「最近の若者は…」という古典がありますが、近ごろでは「近ごろの年寄りは…」というのもよく目にします。
これも「最近の若者は」と同じくらい愚かしいセリフだと思います。)
本書でもパオロ氏の筆鋒は健在で、冒頭から「道徳を教える先生は、道徳が得意でなくてもかまわないのです」と、単にお題目を唱えてそれでよし、とする道徳教育に、楽しいつっこみを入れてくれています。
わたしも「学校で道徳の授業を受けさせていただいたたおかげで」、人を殺すこともなく(立派に?)生きていますが、学校で受けた道徳の授業はいかにも白々しいものであったなあと回想いたします。
本書の面白かった部分をご紹介します。
日本の学校は、ともだちは多ければ多いほどすばらしいことだ、と教えたがりますが、ともだちなんて、数人いればじゅうぶんです。ムリをしてまでともだちを作らなくてもいいですよ。
よのなかで本当に必要とされるのは、ともだちを作る能力ではありません。
ともだちでない人と話せる能力なんです。
本当にそのとおりだと思います。
外国語教室の謳い文句にも、「○○人と友達になれる」とか掲げてあったりしますが、わたしは好きではありません。
別に友達づきあいをするためじゃなくても、言語の使いみちなどいくらでもあります。
使いみちくらい自分で考えます。
私は偉人伝をこどもに読ませるのはやめるべきだと思ってます。
偉人を尊敬するこどもは、偉人でない凡人やダメな人をバカにするようになるでしょう。
そんな子は、自分の親が社長なら尊敬するけれど、平社員なら軽蔑するでしょう。
エラい人にはゴマをすってすり寄り、エラくない人は足蹴にする人間へと成長するでしょう。
世の中はエラい人だけでできているわけではありませんからね。
偉人伝にハマってしまって、自分がエラくない人間になってしまったら、その人は自分のことを嫌いながら生きていかなければならなくなります。
むかしの先生はキビしかった、恐かったというイメージを耳にしていたみなさんには意外だったかもしれませんが、江戸から明治初期までの日本の庶民は、こどもにとても優しかった(甘かった)ようなんです。
日本に来ていた外国人は一様に驚いて、その発見を書き残してます。
当時の西洋では、こどもを体罰で矯正する教育法が一般的でしたから。
厳しいお父さんがいなくなって、という嘆き(ノスタルジー?)にも通じるものがありますが、父親(男性)が好き放題に権力を振るいまくっていた暗黒の時代に戻りたいのでしょうか?
サザエさんの波平さんもそのイメージ作りに一役買っているようです。
東芝もゴタゴタしているところですし、変なイメージを人に植え付けるアニメはそろそろ終了してもいいのではないかと思います。
なぜオトナになって年齢を重ねるほど勉強がコワくなるのかは、「勉強とはなにか」という本質を考えればわかります。
勉強とは、自分のなかの経験と常識をぶち壊す行為なんです。
自分が知らなかったことを知る、それが勉強です。
新たな事実を知ることで、それまで自分が正しいと信じてきた常識や経験が、じつはまちがいだったときづかされることもあります。
若いときには自分のなかにたいした経験が積み上がってません。
だから勉強して他人の知恵や技術を自分のものにすることへの抵抗もありません。
それどころか、自分のなかのちっぽけな経験や常識がぶち壊されてどんどんアップデートされていくことに喜びすら感じます。
ところがその喜びは、オトナになるにつれて苦痛へと変化します。
オトナになると、これまでそれに頼って生きてきた自分のやり方が愛おしくなるのでしょう。
自分以外のやり方には見向きもしない、鼻もひっかけないという人をよく目にしますが、本当にそんな風にはなりたくないものです。
殺人のおもな理由は憎しみなのだから、殺人を減らしたいのなら、いかに他人を憎まないようにするかを教えるのがもっとも効果的です。
ゆえに道徳の授業で教えるべきは、いのちの大切さではなく、多様性の尊重です。
人はそれぞれ考えかたも趣味も見た目も違います。
その差異が他人に危害を加えないかぎりは、差異をできるだけ認めること。
自分とは異なる考えかたや価値観が存在することも認め、考えが自分と異なる相手を頭ごなしに否定・排除するのでなく、自由に議論できるようにすること。
憎しみや殺人やいじめを減らすには、その方法しかありません。
最後に、著者の考える道徳教育が提示されています。
いろいろな生き方、考え方を尊重することにつきると思います。
ここでいう「尊重」というのは、決して「仲良くする」ということではない、とわたしは思います。
学校ではとにかく「仲良く」が強調されるように思います。
『みんななかよく』という道徳の副読本もあるくらいですし。
考え方の合わない人、自分に害をもたらすであろう人からは、
「一刻も早く逃げ出す」
「遠ざける」
これも自分と相手を尊重することになりますから、「みんななかよく」を訴えることもやめていただきたいところです。