現実中毒の予防薬としてのフィクション

自分がラクに生きられているときは、良質なフィクションを定期的に摂取しているときです。小説でも映画でもマンガでもなんでもかまいません。

経済的な安定、良好な人間関係など、現実の幸福があっても、良質なフィクションの摂取が不足しているときには、心の中にある泉から水が枯れ、緑が失われ、荒涼とした風景に侵食されはじめることを感じます。もちろん、現実の幸福が得られているということには、感謝しなければならないのですが。

すごい作品にうちのめされていた中高時代

中高生のとき、ものすごい小説を読んだあとなどは、もう打ちのめされてしまって、現実世界でもそのことばかり考えてしまい、勉強も部活もおぼつかなくなる、ということがありました。

すんごい小説を(テスト前にもかかわらず)徹夜で読んだ後、学校に行って、友達に「他人の心が読める人が出てくる小説を読んでしまった。誰かが自分の心を覗いてるかもしれん。こわいわ」と言ったら、「はぁ? お前アホか(笑)」みたいなことになってました。

あるとき、星新一のショートショートを読んで、意外なオチに感激して、父に無理やり読ませて「な?な? すごいやろ? な?」と言うと、「ふーん、あんた高尚なもん読んどるんやな」と言って、それ以上関心を示してもらえませんでした。

「こんなにすごいのに、なんやこの薄い反応は……」と思い、それ以来父に本を薦めることはなくなりました。

今思うと、それは心が未熟だったときの“はしか”のようなものでした。いろいろな経験をして、見聞きするものに心が容易に動かなくなってくると、フィクションの作品にうちのめされて生活に支障が出る、ということはなくなっていきます。「はー、なるほど。こういう展開ね」などと、わざわざ構成を俯瞰して眺めようとする自分が現れてきます。

本や映画でいちいち衝撃を受けていられる時期というのは、本当に幸せだったな、と思います。

もっとたくさん味わっておけばよかった。

現実も「はまり込んではいけないもの」のひとつ

小説やマンガ、映画、ゲームといったものにはまり込んで、現実がおろそかになることを戒める言葉はたびたび目や耳に入ってきます。

しかし、「マンガばかり読んでちゃだめだ」ということはあるのに、「現実ばかり見ていちゃだめだ」という言葉を見聞きしないのは、なぜでしょうか?

現実も、フィクションと同じくらい、それだけにはまり込むことで心身を毀損するものだと思います。

大体、お金や法律といったことも壮大なフィクションの一つです。小説や映画、マンガと何が違うのでしょう?

自分の常識や生きる上での前提を揺さぶってくれるような作品に出会えたときは、現実に対してある種の距離をとって、突き放して眺められるうようになります。

現実側に立っているときは、向こう岸のフィクションを眺めて「なんだあんなもの」となりますが、フィクションの側に立っているときには、今度は向こう岸にある現実を眺めて、「なんだ、ただの現実じゃないか」となるのです。いろいろな世界がある中での、ただの一つの可能性の一つにすぎないのが、わたしたちがつかんで離そうとしない、現実の世界です。

わたしもちょっとずつ心が硬くなってきているので、フィクションの対岸に遊びに行っても、現実の磁場に囚われていることが多くなり、全身全霊で浸ることが難しくなっていくのを感じます。いくつになっても全身全霊で浸りつづけることのできる人が、創作者になってしまうのかもしれません。

作品を鑑賞して、「つかの間でも現実を忘れられてよかったー」と言ったりしますが、一時的な気晴らしとしてではなく、もっと切実に「現実」という中毒性の高い世界にはまり込みすぎないための予防薬としても、フィクションを味わうことは必要なことだと考えています。

「予防薬」などと、現実的な用途として考えている時点で、すでに片方の足は現実の岸に置いてしまっているのではありますが。