後悔や「もしも」はやっぱりたくさんある
後悔、というほどのものでなくても、「あのときにあっちの道を選んでいればどうなっていただろう」と空想することは誰にでもあることでしょう。
人の欲望には限りがないので「あっちを選んでいたら今よりもっと幸せだったかもしれない」なんて想像してしまうことがあります。
ただ、今なんとか生きていられるということは、過去に選んだことが間違っていなかったことの証拠であるといえます。
しかし、過去の選択の恩恵を受けていながらも「放棄した選択肢の先に何があったのかをちょっと知りたい」という気持ちはあります。どうせ別の道を選んでいても「他の道を選んでいたら」とか考えているでしょうから、何を選んでも同じだといえば同じだといえますが。
一方で「これをしてきたことに少しの悔いもない」という行動もあります。
それが、「好きな人にちゃんと想いを伝える」ということです。
ちゃんと告白してきた
初めて好きな人に告白したのは、中学生のときでした。
当時のことですから中学生が携帯電話を持っているはずもなく、その子の自宅に電話をかけて告白したのです。
向こうの親に取り次いでもらって、待っている間の緊張感、今の若者に想像できますか?(おじさんマウンティング)。
もちろん、上手くいかなかった。
同じクラスの子だったので、翌日はどういう顔をして学校に行けばいいのか、わからなかった。猛烈な恥ずかしさといたたまれなさに襲われて、消えてしまいそうだったことを覚えています。
その後、高校生になり、大学生になり、社会に出て、と、いろいろな人に惹かれてきましたが、そのときそのときで一番好きだった人にはちゃんと想いを伝えてきました。
もう、伝えずには生きていられなかった、ともいえる。
トータルでみると(トータルでみるものでもないけれど)、上手くいかなかったことの方が圧倒的に多くて、「もっとこうしといたらよかった」と、やり方の下手さを後悔していることは盛りだくさんです。そもそも「伝えずには生きていられない」くらい思いつめている人の告白はキモくなりがちで、成功率が下がります。
でも、気持ちを伝えたことは後悔していない。
フラれるたびに友達の家で泣いたり、同じ人に3回も4回もアタックしてことごとく拒絶されたり(それなのにこっちが誘うと会ってくれたりする。一体どういうつもりだ!)、失恋したときはもうこの世の終わりかと思うくらいに絶望して、「なぜ俺は俺なんだ」と、自分の存在に対する肯定的感情が根本から崩壊したりしていました。
当時はやっぱり「告白なんてしなかったら良い関係が続けられたのに」なんて、それなりに良好だった状態を自ら破壊してしまったことを嘆いたりしていました。
でも、繊細な感情がずいぶんとすり減ってしまった今は「後悔していない」などとうそぶいて、あまつさえそのことを親も読んでいるかもしれないブログに書いてしまえるほどに図太くはなりました。
図太く生きていられるのはそのおかげかもしれない
別にトレーニングのために失恋を繰り返してきたわけではないですが、そのおかげで度胸はついたかなと思っています。
この記事にも書きましたが、時々、よせばいいのにあえて恥をかくようなことをやって、自分の心を試してしまうのも、恥ずかしくて、いたたまれなくて、消えてしまいたくなるような気持ちをじっくりたっぷりと味わってきたことが根本にあるからなのかもしれません。
もちろん、生きるかどうか、人生が破滅するかどうかといった、もっとスケールの大きい試練をくぐり抜けてきた人に比べれば、自分が乗り越えてきたものは、たかが失恋程度の子供の遊びですが、(やり方の巧拙はともかく)そこから逃げることだけはしなくてよかったな、と振り返っています。
だから、今、この文章を読んでくれている人にもしも好きな人がいるならば、今のうちに伝えておくほうが絶対にいい。
などと、余計なおせっかいを言いたくなる、クリスマス・イブの早朝なのでした。