わたしはニューロン

なんで何か言いたいのか

Twitterという悪のツールのタイムラインを見ていると、おしゃべりの羅列が目に飛び込んできます。

いつも「なんでこんなにみんな何か言いたくなるのだろう」と、思って眺めています。そして、自分も何か言ってみたりします。いいねがついたりリツイートされたりすると、よくわからない嬉しさが現れたりします。なぜだろう。

「脈絡のないつぶやきの大群を眺めるのがしんどくなる」ということは誰にでもあるでしょう。中にはしんどくならない狂人もいるという噂も聞きますが、わたしの知人でも、それに疲れてSNSから去っていった人は何人もいます。

「なぜ、何か言うのか?」ということがよくわからなくて、SNSからしばらく離れていたことも何度かありました。

懲りずにまた戻ってきているわけですが、周期的にそういうことはこれからもあるでしょう。

「何か言いたくなってしまう自分がなんかイヤだ」という気持ちもあります。別に何も言わなくても地球は回るし、社会は機能していきます。わざわざ何か言ってしまう自己顕示欲に対する自己嫌悪。思春期がまだ終わっていないのでしょうか。

自分は神経細胞のひとつ

それでも、最近は「何か言いたくなってもいいんじゃない?」と思えるようになってきました。

自分を、人類という巨大な生物の脳を構成する、ニューロン(神経細胞)のひとつだと思うようにしたのです。

ニューロンというのは脳を構成する神経の細胞で、人の思考や感情のはたらきは、この細胞が電気的に興奮して、接続した次のニューロンにパルスを送ることで行われています。

ひとつひとつのニューロンは、電気的興奮を伝えるスイッチに過ぎません。

それが100億とか200億とかいうレベルの数で連携して行われるものが、わたしたちが「思考」と呼んでいる活動の正体です。

もちろん、わたしの脳に入っている個別のニューロンは、わたしが何を考えているのかを認識していないでしょう。ただ、入ってきた刺激に応じて、発火を繰り返しているだけです。

人類全体をひとつの個体とみなして、それを構成する個々人を、ニューロンに見立ててみると、われわれ個人が考えて発していることは、豆電球の一瞬の光にも及ばない小さな小さな現象だといえます。

自分の頭の中で、ニューロンのひとつが余計な発火をして、その結果として、くだらないことを考えてしまったとしても、「なんだこのニューロン、バカ!アホ!消えてしまえ!」とは思わないはずです。(それで本当にニューロンが消えてしまったら、消えたニューロン1個分バカ・アホになるのは自分です)

わたしたちは人類という大きな種を支える細胞の一つひとつとして、お互いに情報をやりとりするという機能が与えられています。「何か言いたくなってしまう」というのは、わたしたちがその機能を果たしているからにすぎません。

「でしゃばり」とか「自己顕示欲」とか、そういうラベルを貼ることもできるかもしれませが、コミュニケーションへの欲求とは、先天的に与えられたただの機能なので、「誰かに何かを伝えたい」という自分の内から湧いてくる衝動を抑える必要はありませんし、他人がするのを批判する必要もありません。ただ、機能としてそうあるだけ。

ニューロン1個の機能は、ただただ電気的興奮を起こすことだけです。それが膨大な数になり、連鎖していくことで、複雑怪奇な人間の思考が生まれます。

発信に躊躇してしまう人は、自分のことを大きく見すぎています。「自分なんて」と過小評価しているのではなく、自分を過大評価をしているかもしれません。

自分を過大評価しない

わたしたちニューロン1個としての個人は、ただ信号を発してていればいいのです。それが誰かに伝わり、連鎖して大きくなっていき、どこか別の場所で誰か別の人が大きなことを考えて実行してくれるかもしれません。

脳のニューロンの細胞ひとつひとつは、別に「俺がすごいことを考えてみせる!」などと息巻いたりしていません。細胞としての仕事をただこなしているだけです。仕事というか、ただただニューロンとしてそうある、それだけです。

何か言いたいけど躊躇してしまう人は、そんな風に考えてみたら少しは気がラクになるのではないでしょうか。細胞のひとつが何かやらかしたところで、人間全体へ与える影響はゼロに等しい。

わたしたちは自分の体のサイズを基準にしてモノを見てしまうので、ついつい、一番大きく見えている自分自身の体を、何かとても重大な存在であるかのように扱ってしまいます。

ニューロンの細胞の大きさは0.1mm~0.005mm程度です。まずは、自分の大きさとはそのくらいのものに過ぎないのだと考えるところから始めてみてはどうでしょうか?