突然の別れ
2024年5月22日、わたしの大学時代の恩師、佐藤晴彦先生が亡くなった。
朝、携帯に届いた友人からのメッセージでそれを知った。
突然のことで大いに驚いたものの、先生ももうご高齢だったので、どこか覚悟はしていた。
一昨年、関西に帰ったときに食事を一緒にさせていただいた。それが直接お目にかかった最後の機会になった。
食事の後、駅のホームを元気に早足で歩き去っていく先生を見送ったのが、最後に見た佐藤先生の姿である。
その後も、メールやSNSではちょくちょくやりとりをしていて、時々近況報告をしていた。
また、何年も前の話になるが、先生が退官されたときに、わたしが幹事になって大学の先生方や教え子たちを呼んで、大々的な記念パーティーを開いた。
自分で言うのも何だが、先生がいらっしゃる間にしっかり“孝行”ができたと思っているので、自分としては「もっとこうしておけばよかった」という後悔はあまりない。
訃報を聞いたときも、驚くと同時に「ああ、来るときが来てしまったか」と受け入れてしまった部分もあった。
それでも、やっぱり寂しさがこみ上げてきて、今は何か、たまらない。
それをなんとか昇華させたくて、これを書いている。
わたしは、中国語の最初の手ほどきを佐藤先生にしていただいた。佐藤先生は私にとって“启蒙老师”の一人である。
「去る者は日々に疎し」というが、それも寂しいことなので、佐藤先生との思い出を、忘れないようにここに記しておきたい。
わたしが在学していたのは、もう随分前のことなので、先生のことや大学のことについて、記憶違いや誤解もあるのではないかと思う。
もしもこれを読んでいる方で、わたしの誤りに気づいた方がいれば、メールやコメントなどで教えてほしい。
ええ音で中国語を話すことはカッコいい
わたしは、神戸市外国語大学(以下、神戸外大)というところで中国語を学びはじめた。神戸の西の方にある、ちょっとした高校くらいの規模しかない小さな大学である。専攻語は英語、ロシア語、中国語、スペイン語(イスパニア語)の4つしかない。
「神戸外国語大学」とか「神戸市立外国語大学」とか、大体は名称を間違えて表記されている。
佐藤先生は、その神戸外大の先生だった。
わたしは特に中国に強い思い入れがあって神戸外大に入ったわけではない。三国志もよくわからないし、毛沢東すら名前くらいしか知らなかった。
ただ、高校のときの担任が世界史担当で、大学院で中国史をやっていた先生だったので、中国史を語るときの熱量がとんでもなかった(おかげで授業の進度は遅れに遅れていた)。それがきっかけだったのか、なんとなく中国が気になってはいた。
専攻に中国語を選んだのは、英語はすでに出来る人が大勢いるから、出来る人の少ない新しい言語を学ぼうと思ったのと、「漢字ばっかりで、どうやって言葉が成り立ってるんだろう? 読めない字はどうするの?」という、何となく気になる疑問があったからだ。
中国語ではなく、ロシア語を選んでいても不思議ではなかった(ちょっと検討していた)。ただ、フランス語やドイツ語、スペイン語などの、ラテン文字を使う言語にはあまり惹かれなかった。何か、全く新しいものに挑戦したかったのだと思う。
中国語が勉強できる大学はいくつかあるが、経済的に私立大学へ行くことは難しい。公立大学なのに受験科目に理数科目がなく(当時)、家からわりと近い、というくらいの理由でこの大学を選んだ。
そして、西の外大の最高峰である「大阪外国語大学(現在の大阪大学・外国語学部)よりは入りやすそう」という失礼な下心があったことも告白しておく。
まあ、そのへんにいる普通の高校生が大学を選ぶ基準は、そんなものである。
わたしは、二次試験の前日に緊張しすぎて一睡もできなかったというアクシデントをなんとか乗り越え、無事に入学を果たした。
神戸外大では、1年生から3年生まで月曜日、水曜日、金曜日の1、2限は「専攻中国語」で固定されており、ここで中国語の専門教育を受ける(4年生になると専攻の授業は月、水のみになる)。
わたしの学年は、1、2年生の専攻中国語でそれぞれ週1回、佐藤先生に教えていただいた。
佐藤先生は、1年生の授業を担当することにこだわっておられた。
「1年生の時期を逃すと、後で発音を修正できなくなってしまう」
という理由だ。
佐藤先生の口調そのままに関西弁で言うと、
「1年生の時期を逃すとねぇ、もうホンマに無理なんですわ!」
である。
また別の機会に書こうと思うが、佐藤先生は学生に正しい発音を身につけさせることに凄まじい精力を注いでおられた。執念というべきかもしれない。
自分の納得できるレベルに達していない学生を、途中から担当することに我慢ができないのだ。
そういうことで、1年生の授業は佐藤先生の指定席だったのである。
また、わたしたちの代では諸事情あって休止されていたのだが、1限が始まる前に「朝練」も行っておられた。
今ではそこら中に中国人がいるし「親族に中国人がいる」という人も珍しくないのだが、わたしの親族に中国人はいないし、高校を卒業するまで、わたしは(ド)田舎に住んでいたので、そもそも中国語を生で聞いた経験もほとんどなかった。
ジャッキー・チェンの映画は好きで観ていたが、あれは「広東語」という方言の一種で、よく「北京語」よばれる中国語の共通語(普通话)とは大きな隔たりがある。方言というよりは、もはや別言語と言ってしまってもいいくらいに違う。
例えば、わたしの「岡本悠馬」という名前は、共通語では「ガンベン ヨウマー」という音になるが、広東語では「ゴンブン ヤウマー」となる。
日本語だと、青森であろうと沖縄であろうと、人の名前の読み方が変わるということはないが、中国語ではそれが起こってしまうのである。それが面白くてわたしは一時期広東語にハマってしまい、広東省に留学までしてしまうのであるが……
話を戻すと、わたしは大学に入って初めて「中国語を話す人」を見た、といえる。
中国語を学ぶにあたって、ほとんどの場合は初めに中国語の声調(せいちょう)を練習する。中国語は音の上げ下げで意味が変わるというのは有名な話だ。
佐藤先生の授業も、まずはこの「mā、má、mǎ、mà」から始まったのだが、驚いたのは先生の声量である。
めっちゃ声でかい。
だいたい、高校までの英語の時間には、生徒も先生もそんなに声を張り上げて音読したりしていなかった。
先生はまだしも、生徒の方は「変に本格的な発音をすると恥ずかしい」などという、(今にして思えば本当にしょうもない)自意識がはたらいて、本当は美しい発音ができるのに、わざと日本人っぽい発音で読む、ようなことも起こる。今でもそんなことがあるのだろうか? 多分あるのだろう。
佐藤先生の授業では、そのような「照れ」や「本格的な発音は恥ずかしい」という概念が1ミリたりとも存在しなかった。
「美しい発音こそ正義」
「上手く発音できることが一番カッコええ」
という世界が広がっていた。
その世界の主として君臨していた。
当時のわたしは、教室中に甲高く響きわたる佐藤先生の「マー」(というか、「マー!!!!!」)を聞きながら、
「あ、外国語ってこんなに堂々と、“それっぽい”発音でやってもいいんだ」
ということを感じていた。
「ええ音で中国語を話すことはカッコいい」
これが、最初に佐藤先生から教えていただいたことである。
もちろん、すぐにそんな「ええ音」になるわけはなく、実際には小さな声でボソボソと練習していたし、自分の中国語が「ええ音」になっていくのには、長い長い時間と、いろいろな人の助けを必要としたのであるが……
つづく