こちらの記事の続きです。
佐藤先生の学問に取り組む姿勢について書いてみたい。
一学生が垣間見た、先生が中国語に向き合う姿である。
当たり前といえば当たり前の話だが、わたしにとって佐藤先生は数多くいる中国語の師の一人であって、中国語の知識や運用について、何から何まで佐藤先生に指導していただいていたわけではない。
佐藤先生が最も力を入れておられた、発音やスピーチコンテストの指導を個別にしていただいた回数も、片手で数えるほどしかない。
そもそも、専攻中国語の授業は1年生と2年生で1コマずつだけだったし、わたしはゼミ生ではあったけれど、それほど熱心に課題に取り組む学生ではなかった。
佐藤先生の研究テーマは、近世(宋〜清くらいの時代)の中国語で書かれた作品を通して中国語の文法現象の変遷を分析する、歴史文法というものだった。
しかし、わたしは佐藤先生という存在を面白がってゼミ生になったのであって、正直なところ、そういったテーマにもあまり関心は持てなかった。卒業論文も現代中国語をテーマに書いた。
個別の知識は血肉になったのか忘れてしまったのか、定かではないが、今でも鮮やかに記憶に残っているのは、先生の仕事に向かう姿勢だ。
佐藤先生は京都にお住まいだったのだが、毎日、明け方のまだ暗いうちに家を出て、阪急電車と地下鉄を乗り継ぎ、片道2時間くらいかけて神戸の西の果ての大学に通勤されていた。しかも、一限の前に「朝練」と称して時間外指導までされておられた。
いつも、(なんで神戸に住まないのだろう?)と、不思議に思っていたのだが、とうとう尋ねる機会がなかった。
そして、佐藤先生のトレードマークといえば、いつも持ち歩いている大量の本であった。
ビジネス用の大きなリュックやショルダーバッグに大量の本を詰め込み、早足でのっしのっしと歩く姿に「3泊4日の旅行にでも行くのですか?」と思ってしまうのだった。
先生はいつもビシッとスーツを着てネクタイを締めておられたが、歩きやすさを重視してか、足元はスニーカーを履いていたことが多かったように思う。
誰よりも大きい黒い鞄を提げ、学生を追い抜きながら一段とばしで駅の階段を駆けていく。
一緒に歩いているとき、50mほど先にある横断歩道の信号が青であるのを見ると、「間に合いそうやから走ろ」と言って、わたしたちを置いて駆け出していく。後を追いかける学生たち。
いつだったか、先生は両肩に重そうなショルダーバッグをかけておられた。
『進撃の巨人』の立体機動装置を身につけたような出で立ち、というとイメージしやすいかもしれない。
(うわっ、2つになってる……)
と、若干、引いてしまったことを覚えている。
あまりにも重そうだったので、思わず「先生、鞄ひとつ持ちますよ」と言ったのだが、先生はニカっと笑いながら、
「一個だけやったらバランス崩れるねん!」
といって、かたくなに鞄を渡してくれなかった。
「この人は、バランスを取るために必要もないのに鞄を2つ持ちにしているのではないか」
と疑ってしまった。
そして、その大きな鞄から古めかしい本を取り出し、電車内でも出先でも、研究を少しずつ進めておられたのである。
本当に、寸暇を惜しんで勉強し、研究しておられた。
関西大学の内田慶市先生のゼミ合宿に参加したときなど、宿舎に到着してみんながリラックスしているときにも、ロビーでおもむろに本を開いて何やら線を引きながら内田先生と一緒に検討しているのである。
宿舎に着いただけで一仕事終えた気分になっていたわたしはそれを見て、なんだか恥ずかしくなってしまった。
また、大学のキャンパス内でぶらぶら遊んでいる学生を見ると「ほんまにその時間を俺に分けてほしいわ!」とつぶやいていた。
また、佐藤先生は365日24時間、中国語のことで頭がいっぱいなので、ゼミなどで飲み会があっても、すぐに中国語の話になる。
「冈本!(先生は学生を中国語の読み方で呼ぶ)これわかるかっ!?」
と言って、アホの学生が知るはずもない語彙や表現、何かの作品の引用やらを出題してくるのである。
「いや……知りません……」
と答えると、心から残念そうな顔をして、
「そうか〜、冈本わからんかぁ〜、◯◯はどうや!?」
と言って、矛先を別の学生に向ける。
結局は誰も答えることができず、先生が答えを教えてくれるのである。
その嬉しそうな顔。
わたしたちの顔にはちびまる子ちゃんのようなタテ線が入っていた。
たまたま知っている内容を聞かれて、上手く答えられたりすると、
「かっこええ!!」
と言って、先生の笑顔の輝きは二割増しになるのである。
飲み会の最中だというのに、いつも持ち歩いている巨大な鞄から辞書を出してきて、調べ物がはじまってしまうことも珍しくなかった。
というか、ほとんど毎回そんな感じだった。
アホの学生だったわたしは、当時はそのありがたさもわからず、「もう勘弁してくださいよ」などと思っていた。(今もそう思っているが)
困ったことといえば、佐藤先生には、学内や学界での政治的な話を好んで語られる一面があり、リアクションに困ることもあった。人の好き嫌いも激しい方だった。
「わりとどうでもええかな」と思いながら愛想笑いをしたことも告白しておく。
決して学問だけに浸る竹林の賢者ではなく、俗世にもどっぷりつかっておられる方であった。「先生は、企業とか政界とかでもどんどんのし上がっていくタイプかな」と思うこともあった。
このあたりはただの学生としての印象なので、同業の先生方はまた様々な見方をされているかもしれない。
一方で、こと研究と教育については純粋そのもので、どこまでも澄んだ目で書物を読み、学生を見つめられていた。わたしは佐藤先生のそんな部分を大いに尊敬していた。
だからわたしにとって佐藤先生とは、中国語の師であるというよりも、自分の好きなことに対する情熱と努力、誰よりもその対象を面白がることを教わった師であるのだ。
なんというか、佐藤先生に対しては尊敬の念はもちろんあったが、失礼を承知で言うと、先生の一途すぎる生き方が面白くて、もはや「可愛い(中国語の“可爱”のニュアンスに近い)」とさえ思っていた。
それを眺めていたくて、わたしは先生にずっとついて回っていた。
正統の学問を受け継ぐことはできず、
「佐藤流」一筋に学んできたわけでもなく。
でも、誘いがあれば飲み会に顔を出し、私生活に変化があれば報告し、晩年まで親しく交流していただいた。
今思えば、そのあたりの距離感が良い方向に作用したのかもしれない。
つづく