【サイマル・アカデミー中国語通訳学習記3】あこがれと、使命感と

まだ通訳学校の授業が始まっていませんが、3本目の「学習記」を書いてしまいます。

今回も学習記ではなく、自分が通訳学校に行こうと思った動機について書きます。

ただ、なんとなく、このことを書くことは恥ずかしいのです。

ノートか何かに書いておいて、しまい込んでしまった方がいいかもしれない。

しかし、人に見せたくないと思うようなことこそ書くべきなのでしょう。

というわけで、書きました。(いつか消すかも)

外務省のA君

大学の後輩にA君という人がいて、外務省で勤務しています。

今では外務省の中国語通訳のエースで、首脳会談の通訳なんかもこなしています。テレビのニュースでもときどきチラリと映っているのを見かけます。(わざわざイニシャルにする必要もないのかもしれませんが、一応ここではA君としています)

わたしとA君は在学期間は重なっていないのですが、わたしが卒業後もちょくちょくと母校に顔を出していたこともあって、色々と交流する機会に恵まれました。

学生の頃から、能力はもちろんのこと、人柄も超一流の人物でした。わたしは彼をとても尊敬しています。

先日、A君と食事をする機会がありました。

私の記憶にあるとおりの笑顔でもりもりと料理を食べ、華々しい活躍とともに、日々彼がこなしている超激務の話をしてくれました。

そのエピソードの数々を聞いていると、わたしのほろ酔い気分はどこかへ消え去り、血圧が50くらい上がりました。

なんでそんな生活でこんな朗らかに笑っていられるんだろう……?

“哭笑不得”というのはこういうときのことを言うのかな?

と思いました。

会食後「仕事が終わっていないから」ということで、A君はまたあの素晴らしい笑顔で霞ヶ関の方へ戻っていったのでした。どんな世界で生きているのか。

A君に少しでも近づけたら

わたしは、いつかサイマルの通訳者としてデビューできたら、いつかA君と一緒に仕事がしたいと思っています。

そんな機会が来るのかどうか、わかりませんが。たとえ実現しなかったとしても、そんな日が来たら嬉しいな、と想像してしまいます。

会食のときにもらったA君の名刺を、わたしは財布に入れて持ち歩いています。

いい年のおっさんがそんなことをしていて、はっきりいって気色悪いと思いますが、A君に少しでもあやかれたら、という気持ちです。

彼のような人が最前線で戦ってくれているおかげで、わたしのような、公共心のない、自分の半径2m以内のことしか考えられない者が、この日本で平和な暮らしを享受できています。

日本人として中国語通訳をする意味

話は変わりまして……

「日本語がうまい中国人がいくらでもいるんだから、日本人がわざわざ通訳する必要はない」

と言う人がいます。

確かに……

一理あると思います。

通訳としての理想のあり方は、出身や民族や国籍など関係なく、両言語と両文化に精通し、完全なるマルチリンガル、マルチカルチャー、不偏不党、公明正大、というものでしょう。

しかし、それができる人はなかなか少ないのではないかと想像します。

極端な話、もし、日本人に一人も中国語ができる人がおらず、すべてを日本語のできる中国人に依存するようなことがあったとしたら、それは日本の社会にとって好ましいことでしょうか。

民族、国籍差別ではなく、わたしは、どれだけ中国の人材が豊富でも、日本人も同じくらい中国語ができる人が増えなければならないと考えています。

それは別にわたしでなくてもいいのですが、なにか、わけのわからない使命感というか、うずくものを感じるのです。

自分ならそこに行けるかもしれない。自分がそこに行かなければならないのではないか。と思うことがあるのです。

それは完全に錯覚、幻想であって、自分よりも優秀で人格的にも優れた誰かがすでにいるし、これからも大勢現れるのでしょう。それでも、わたしは、そこに行ってみたい。チャレンジしたい。

鍼灸師としての仕事も抱え、「二足のわらじ」なんて言われて、その職業に人生のすべてをかけている方々に対して失礼な態度だと思われるかもしれませんが、今からでも頑張れば、一流になれなくても、今よりは見晴らしのよいどこかにたどり着けるのではないか。

そう信じて、できるだけのことをしていくつもりです。