「独学」は存在しない

わたしは学校や教室で教える一方で「中国語独学サポート」なるサービスを提供していて(少人数制でサービスの質を維持するため、現在は新規受講生の募集は停止中)、中国語「独学」のお手伝いもしていますが、そんなことをしているくせに、いつも「『独学』ってなんだろな」と思ってしまいます。

しょうもない書き手であればこのへんで広辞苑に書かれている「独学」の項目を引いてくるでしょうが、わたしはイヤなのでそれは各自でやってください。

一般的な認識として「学校とかに行かず、先生につかずに、本などを使って学ぶこと」だと思いますが(後で辞書を引いてみたらだいたいそういうことが書いてありました)、厳密な線引きをすることは不可能です。

ここは外国語教室のブログなので、外国語を想定して話をすすめましょう。

「本だけで学ぶ」といえばほとんどの人は「独学」だと認定すると思います。

では、YouTubeに公開されている文法講座などの映像を使って学ぶのは、独学なのでしょうか?

意見は分かれるのではないでしょうか。

わたしの感覚では、独学といっていいと思います。YouTubeはコメント機能があるとはいえ、相手から与えられる情報を一方的に受け取るという性質のものなので、本やCD、ビデオの学習とそう変わることはないからです。

どうやら、わたしの感覚では「双方向性の有無」というものが独学の定義にかかわってきそうです。

しかし、こういうのはどうでしょう。家での学習はYouTubeなど見ずに本やCDだけを使って勉強し、わからないことを職場にいる外国人の同僚に質問して教えてもらう、というのは独学でしょうか?

あるいは、質問はしない、その同僚がしゃべっているのを聞いて、言い回しなどの表現を盗み取る、というのは独学でしょうか?

これも意見が分かれるでしょう。「盗み取る」場合は「独学」に大きく傾きそうですが、そもそも「独り」でないという時点で独学とはいえないと主張することもできます

アンケートなどを取ってみれば(面倒なので絶対やりませんが)この辺の線引きは人によって大いに解釈が分かれるところでしょう。独学かそうでないかを厳密に判定することはできないはずです。

「独学で建築を学んだ」と豪語する安藤忠雄氏にしても、いままで一度も、誰にも教えを乞うたことがないはずがありません。(この人の生き方はとても尊敬しています)


「独学」というと何か「孤高の存在」、「カッコいい」感じがして、それについこだわってしまう人もいそうですが、そもそも書籍すら誰か別の人が書いたものですし、その書籍が書かれた文字ですら、わたしたちは人から習ってはじめて使いこなせるようになりますし、さらに言えばわたしたちが情報を得る媒介になる言語自体が、親や回りの環境から与えてもらったものですから、突き詰めれば純粋な独学というものは絶対にありえません。

「学ぶ」というのは「まねぶ」つまり真似ることから来ています(中国語でも「まねする」というのはそのままずばり“学”といいます)から、「独学」という言葉自体、「一人で真似をする」という矛盾を抱えています。

こうなったら「中国語独学サポート」の看板は外さなければならなくなりますが、私は「本当の『独学』など存在しない」と開き直ったうえで、あえてこの名称を使っています。

「誰かに教えてもらう」にせよ、「自分で調べて知識を得る」にせよ、どのような形でも、学びたいという意欲は自分自身の中からしか生まれませんし、学びに向かう行動は、自分自身のものでしかありえないからです。

そういう目で見れば、あらゆる学びはその形式を問わず「独学」だといえると思うからです。

(という感じで無理やりオチをつけてみました)

こちらの本は学校を卒業するタイミングで、これからも自分で学ばねばと思って読んだ本で、とても感銘を受けました。外国語学習についても書かれています。