世界を絵に描くということ、言葉で世界を描くということ

中学校時代に美術を教えてもらった先生が主宰している絵画教室に行ってきました。

先生はずいぶん昔に教員を辞め、画家・講師として活動されています。

中学生のときにそれほど交流があったわけでもなく、ただぼーっと授業を受けていたイチ生徒だったので、当然、卒業してからも当然連絡を取り合っていたわけではなかったのですが、先生は当時のわたしにとって「ちょっと気になる人」でした。

神戸でも定期的に個展を開いておられて、わたしはだいたい毎年見に行っているのですが、なんだか自分も習ってみたくなって、ついに念願かなっておじゃましてきたのでした。

「絵を描くことが三度の飯より好き」というわけでも、「休日は美術館巡りで過ごします」というわけでもなく、ほとんどヒヤカシのようなもので大変恐縮だったのですが、数年前に東村アキコの『かくかくしかじか』という漫画を読んで泣いて以来、絵画教室、という空間に身を置いてみたいという気持ちが膨れ上がっていたのです。

『かくかくしかじか』というのは東村氏の絵の師匠である「日高先生」との思い出をつづった作品なのですが、そこに出てくる日高先生はジャージにジーパン姿で竹刀を振り回して生徒をしごきあげる、今だったらヤフーニュースに上がってしまうようなスパルタ先生です。

その点、わたしの先生は物腰も柔らかく、あくまでも優しく指導してくれる先生で、体罰などは一切ないので一安心です。

個展に行くと、生徒がたくさん来ていて、お手伝いなんかもしているので、とてもよく慕われていることがわかります。

雑談や近況報告も交えつつ、いろいろと技法を教えてもらいながら、2時間半くらい描いていました。

絵を本格的に学ぶ人は、このようなデッサンを気の遠くなるほどの時間をかけ、何枚も何枚も描いていく必要があるのです。

描いていて思ったのは、“听写”(ディクテーション、書き取り)とか短文の暗唱はデッサンによく似ているな、ということでした。

わたしは自分の教室の生徒や、独学サポートの受講生に、必ず書き取りと短文暗唱を課します。

言葉を使う、というのは、現実の世界で起こるあらゆることを、音声・文字で描きとるという行為にほかなりません。外国語を学ぶときには音の出し方(発音)、文の作り方(文法)などの細かいルールを頭に入れ、それを体に染み込ませる必要があります。

わたしが何ページも何ページも書き取りや暗唱を課すのは、デッサンをさせているのと同じだな、と思いました。形が崩れていたりすると、先生がちょこちょこっと手直しをしてくれるように、発音が間違っていると、舌や唇の形を示します。

ときどき手を貸しながらも、あくまでも学習者本人の中に技術が蓄積していくのを辛抱強く待たなければなりません。誰も、本人の代わりをしてやることはできないのです。

今回、わたしたちが描いたような単純な立方体や直方体は、「こんにちは」とか「さようなら」といった単純な挨拶のようなものです。しかし、これがなければ何も始まりません。

写真に撮ってしまえば一発で、しかも寸分違わず再現できるような立方体を、地道に地道に紙に写し取り、

Google翻訳にかければ一瞬で出てくるような簡単なセリフを、何度も何度も口に出す、

そのような地道な作業の延長線上に、その人でなければできない表現が待っている。

他の誰にも描けない絵が生まれ、その人でなければ生まれない言葉が生まれてくるのです。

いまのところ、寝たままでそれを習得する術はありませんし、自分で努力する以外に、高いレベルに到達する喜びを味わう術はありません。

自分の手で生み出したい、自分の口で表現したい、という意欲を持ち続けるかぎり、人は絵を学ぶし、外国語を練習し続けるだろう。

帰りの電車で暗くなった景色を眺めて、そんなことを考えていたのでした。まだまだこの業界は安泰だな、という下世話な思いとともに。

『かくかくしかじか』は、思い出の先生がいる、という人ならば絶対に読んでみてほしい一冊です。

もちろん、いま、人に何かを教えている立場にある人にも。