なぜスピーチコンテストに出るのか?出すのか?

夏から準備をすすめてきたスピーチコンテストが終わりました。

例年、わたしは第二外国語の2年生のクラスからコンテストの出場者を募っています。(専攻のクラスにはすでにスピーチコンテストの指導に定評のあるベテランの先生がいますが、学生に個別に頼まれて指導することもあります)

今年は少し趣向を変えて、第二外国語の1年生から参加者を募集してみました。

朗読部門であれば、しっかり準備すれば初学者でもいいところまでいくのではないかと思ったからです。今年は中国語に熱心に取り組む学生が多い印象があるので、彼らがどこまで通用するかを試してみたかったのです。

結局、わたしのクラスでは8人が参加して、1人が準優勝するという結果になりました。

これが良い結果だったかどうかはわかりません。

博打ではないので、「8分の1が受賞したからOK」ということでもありません。受賞できなかった学生にとってみれば、悔しいことに変わりはありませんから。わたし自身も悔しい気持ちはあります。

いくら朗読とはいえ、学習歴わずか半年でまとまった量の文章を「聴ける」レベルにまでもっていくことは容易なことではありません。個別の単語だけがうまく発音でるだけではとても足りないのです。

抑揚のつけ方、ポーズのとり方、そして演じ方。

さまざまなテクニックを組み合わせて、作品を構成していく作業が必要になります。

わたしは学生を指導しながら「同じ素材でも演者によってこうも違って聞こえるのだな」と驚いていました。オーケストラの指揮者の重要性がよくわかったような気がしました。

早い段階から準備をして、夏休みも学校に集まって練習を重ねていたおかげで、本番前には皆かなり立派に読めるようになっていました。

本人たちにとっては大きな問題ですが、スピーチコンテストの入賞というのは水物ですので、賞の有無をあまり気にする必要はありません。

「なんでこれで優勝するの?」とか、反対に「どうしてこのレベルで落とされるの?」と思わされることはしょっちゅうあります。

結果が出てから、その結果を受け入れられるかどうかを自分の胸に聞いてみれば、自分がどれだけ努力できたかがはっきりわかります。

負けたという結果を受けて、自分の正直な心境が「ああ、仕方ないな」でしたら、負けても仕方ない練習だったということですし、「なぜだ!?」と憤慨してしまうならば、それだけの努力ができたということですから、誇っていいのです。審査員の見る目がなかったというだけの話です。

「どうでもいいような笑い話や教訓めいたくだらないお話を必死に練習して何になるの?」と思うこともあるでしょう。

しかし、スピーチコンテストのために”くだらない”文章を必死で練習することは、かならずプラスにはたらきます。

短い文章にも、上に挙げたような抑揚、ポーズ、演じ方、そして有気/無気音、そり舌といった個別の技術が必ず盛り込まれていますので、これを徹底的にやることで、本人の中に「中国語を使うための技術の核」が生まれます。

そして、来る日も来る日も練習を繰り返して体得したその「核」は、中国語の学習を続けていく限り、いや、たとえ学習をやめてしまったとしても、相当長い間、本人の中にとどまり続けます。

受賞できなかった学生は今は悔しいかもしれませんが、続けていればどこかで報われる日が来ますし、「あのとき受賞できなくてよかったのだ」と思えることすらあるでしょう。

今回、こうしてわざわざ時間を割いて、何度もダメ出しをくらいながら練習したことを生かして、また新しいチャレンジをしてほしいと思います。

中国語スピーチコンテストにかぎらず「自分のすべてを衆目のもとにさらして評価を仰いだ」という経験こそが宝であると、元スピーチコンテスト参加者で悔しい思いもたくさん経てきた自分は断言します。

大学に入学したときには、まさか半年後に、自分の専攻語でもない中国語で舞台に立つことがあろうとは、思いもしなかったでしょう。果敢に挑戦した学生たちに賛辞を贈ります。

そしてまた次があれば、そのときにも力いっぱい支援するつもりです。