FacebookのTLに、知人が「いいね」した投稿が流れてきました。
投稿者は浅原ルミ子さんというクラリネット奏者・講師の方です。面識はありませんので、ご本人に連絡をして、ブログへの転載をご快諾いただきました。
素晴らしい内容だったので、こちらで紹介いたします。一読をおすすめします。
「心を開く」ためのレッスンをしてきたかな?
この【怖くもなんともない】で感銘を受けたのは以下の部分です。ちょっと長くなりますが引用します。
オランダにおけるクラリネット初級者は、【3年間をかけてやっと全ての運指を網羅する】のだ。
1つ1つのテーマについて、とっても簡単なことを繰り返し練習する。
そして、一度、二度、三度程度の運指と運指の繋げかた、音と音の繋げ方を練習する。
つまり、高度な技術の【最小単位】を丁寧に期間をかけて習得するのだ。
時間をかけて学ぶため、自己犠牲を払って練習するという場面に追い込まれないので、心も健康。
それは常に心を開いた状態でレッスンを受けることにつながっている。
強要やプレッシャーもない。
したがって、高校生や音大生になっても、高度な技術を目の前にして【怖いことは何もない】のだ。
なぜなら、全ての音の繋げかたをすでに知っているから。自転車を手離し運転するレベルで。
いちいち怖がらなくても、技術と技術をつなげていくことが当たり前であり、常に自分に正直に心を開いて奏でている。あとは複雑さや速さに昇華させるだけ。そこに集中してじっくり練習していく。
これをすべて「◯◯語の学習」に当てはめて読んでみると、大いに参考になるところがあると思いませんか?
もちろん、間接的にしか知らない自分が、「とにかくオランダのやり方が素晴らしい!」と、手放しで礼賛することはできません。時間的コストを多くかけるためには、経済的な余裕も求められるはずです。
しかし、それをひとまず置いておいて、「怖いことはなにもない」と感じてもらえているかどうか、我が身を振り返ってみると、ちょっと心もとなくなります。もちろん、そう心がけてはきたつもりですが……
成果を焦るあまり受講者を急かしてはいなかったか?
あるいは、受講者の焦りに引きずられてはいなかったか?
一度に大きなカタマリの課題を与えて、困らせることはなかったか?
「自転車を手離し運転するレベルで」、基礎を積み上げることを怠ってはいなかったか?
などなど。
教授法などのテクニックはともかく、自分は「心を開く」ことに心を使ってきただろうか? 再考するきっかけをもらいました。
言語を磨くためには、言語の人だけを見ない
わたしは音楽のことはあまり詳しくなくて、多少ギターをかじっているくらいの者です。
練習歴は20年くらいありますが、ずっとかじっているだけで、噛み砕いて消化できていないので、かじっているというか、しゃぶっているというか、ずぶずぶとふやけてしまっているような状態です。
それでも、何人かの先生から手ほどきを受けてきた経験もあって、音楽のレッスンは言語学習のレッスンに通じるものがたくさんあることを感じています。
言語を学習するとき、効率的な学習法や、楽しめる学習法、スランプからの脱出法を探して、いろいろな書籍やネット記事を探すことがあると思います。
もしかしたら、今これを読んでくださっている方も、それを期待してわたしのブログを訪れてくれたのかもしれません。
しかし、そういうときに言語の人だけを見ているのはもったいないです。世の中にはいろいろなジャンルの技能がありますが、本質的なところでそう大きな違いはありません。
だから、壁を破るきっかけをもたらしてくれるのは、音楽家の言葉かもしれないし、料理人の言葉かもしれない。スポーツ選手だったり、今だったらプロゲーマーだったりするかもしれない。
「言語はとどのつまり道具なのだから他の技能も磨け」と言われたりします。それに賛同するかどうかはともかく、言語を磨くために他の分野に目を向けておいたり、他の技能を高めていくことの有用性は常にあるものだと考えています。
そして、今から【超簡単な練習】をやっても遅くない。恥ずかしくもない。
自由に、のびのび、心を開いた状態で高い技術の演奏する!という望みがある限り、いつでも上達できるし、いつ上達してもいいのだから。