人生に自由は3回しかない?
小学生の頃だったでしょうか。親に言われて恐ろしかった言葉があります。
「人生には3回自由がある。小学校に入る前、大学生のとき、年寄りになったときや」
というものでした。
乳幼児は学校に行かなくてもいいし、大学生は授業に出ても出なくても誰にも叱られません(後でどうなるかは自分の責任ですが)。年をとって引退すれば、会社にも行かず悠々自適に暮らせる、ということでした。
「義務を課されることがない」という意味でそう言ったのでしょう。特に何かを言い聞かせたくて言ったのではなかったと思います。親も自分の境遇がしんどかったのでしょう。
幼かったわたしは、「え? そうなん? なんか、悲しいな」と、胸が苦しくなるような気分になりました。まるで、それ以外の時間はすべて不自由で苦しみに満ちたものであると宣告されたようでした。すでに自分は自由な時期を一つ終えてしまっている……
親は普通の会社員です。たしかに、あまり楽しそうに仕事には行っていない。
その頃の自分はというと、小学生ですから毎日学校に行かなければならないし、宿題をしなければ叱られる環境です。将来行くかどうかわからない、大学というものは楽しいところらしいけれど、それもわずか数年間のこと。
「このまま大人になったら、老人になるまで自由ではなくなってしまうのか」
「普通に会社に入る」という選択肢が遠のいていったきっかけでした。
就職から逃げる
大学生になって、周りが就職活動に奔走しているときも、一切その活動をせずに大学院入試の勉強をしていました。学問研究ができれば、自由に生きられると思っていたのです。(結局、行きませんでした。その話はまた別の機会に)。
とにかく就職ということをしてしまってはいけない、という強迫観念にも似た信念がありました。まあ、ただのモラトリアムです。
大学卒業後の仕事は任期付きのものを選び、任期終了後はフリーの翻訳者になり、鍼灸師になってからは即開業、と、どこかに身を預ける、ということをしてはいけないと思って生きていました。
結局、大学を出てからかなりの時間が経ってから、いろいろな縁があってあれほど避けていた就職をし、今は決まった時間に通勤をするという日々を送っています。もうすぐその生活も丸3年。
「自由ではなくなったのか?」というと、時間的には、やっぱりそうです。かつて独立してやっていたときのように、平日の昼間に思い立ってすぐ遊びに行く、ということはできなくなりました。当時が懐かしくなることも、やっぱりあります。
毎月安定してお給料がもらえる、ということにも慣れてしまって、昔のように「次の月はやばいかもしれない」という危機感は薄れました。一方で、危機感が薄れてしまったことに対する危機感はあります。
もし今後、安定の保証がない立場に再び戻ろうとしたときに、恐怖心が芽生えるであろう自分がいます。すでにそれは、昔あれほど恐れた「自由を失っている」状態なのかもしれません。
自由/不自由にとらわれることが不自由
では、独立してやっていたときが本当に自由だったかというと、必ずしもそうではないと思っています。
確かに、好きなときに休みを取れて、仕事を選べる、という点では自由です。しかし、仮に休めばその分収入は減りますので、経済的自由は失われることになります。会社のようなチームでなければ、あまり大きなこともできません。雑務だってて自分でこなさなければなりません。
なので、今は、外から見える立場上の自由不自由にこだわらないようにしています。
鍼灸師としての自分の仕事でいえば、鍼の技術を磨いていけば、診ることのできる症状は増え、できることの自由度が増します。それは、効率よく学ぶことのできる環境に身を置いているからこそ得られる自由です。
「自由を失いたくない」と恐れていた過去の自分も、自由か不自由か、ということにとらわれていたという点では不自由であったといえます。
立場や環境によって簡単に揺らいでしまうような自由は、それほど価値のある自由ではありません。
自由とは「好きなときに好きなことができること」なのかというと、それも違います。
動物は、好きなときに好きなことをしています。では、動物は自由に生きているのでしょうか。犬や猫は本当に自由でしょうか。 大空を飛ぶ鳥は、本当に自由でしょうか。
気が進まなくても、やるべきことを自分の意志で選択してやっている人の方が自由なのではないでしょうか。
「自由である」ということが、自分に限らず多くの人にとっての生きるテーマでしょうが、少なくとも、今のわたしは「好きなときに好きなことを」というのは、人生をかけて目指す自由の形ではないかな、と感じています。