そこに快感があることを自覚する―怒りの暗黒面に堕ちないために

人の言動に腹を立てる、ということがあります。

「◯◯された」とか、反対に「◯◯してくれない」などです。

「次はガツンと言ったろ」は、期待の一種

自分が継続して他者からの害を被っているとき、「次に〇〇してきたらガツンと言ってやろ」と、身構えることがあると思います。

このときに、本当ならば自分は「〇〇されたくない」はずなのに、どこかで相手が〇〇してくることを期待している心があります。そして、案の定、相手が〇〇してきた/してくれなかったら、「そらみたことか」となって、相手への非難、制裁に青信号がともります。

このときに考えなければならないのは、相手が「〇〇してくる/してくれない」というのは、本来ならば自分の期待に背いた言動なのですが、「次に〇〇してきたら/してくれなかったら」といって身構えている状態は、部分的には相手が「〇〇してくる/してくれない」ことを期待している状態である、ということです。「期待」という言葉は少し言い過ぎかもしれませんが、そういう感情は確実にあるはずです。

そして、実際に相手が「〇〇してくる/してくれない」場合、言動自体は自分に対してマイナスになる言動ではあるものの、想定どおりの展開になったという点で、自分の期待は成就したということになります。そして、当初の予定どおり、相手への非難、制裁が発動するわけです。

期待どおり→快感

このとき、自分は相手の言動で不快な気持ちになってはいるものの、どこかで自分の目論見通りになったことに快感を覚えている、そういう部分があると思います。

自分の心の醜さをさらけ出すようで、嫌ですが、少なくとも自分には、ある。

わたしは特別な人間ではないので、自分だけがとりたてて清らかな心を持っているわけでもないし、反対に、自分だけが特別に邪悪な心を持っているわけでもない、と思っています(そう信じたい)。

なので、これを読んでくれている方の心の中にも、同じようなはたらきがあると想像しています。

悪を懲らしめることは気持ちいい

相手への非難、制裁は、鬱憤を晴らすことができるという点で、「スカッとする行為」です。いかに相手が原因を作ったとはいえ、そこには快感がともないます。「相手が原因を作ったからこそ」と言うべきかもしれません。正義は自分にあるのですから。

子供がヒーロー番組を大好きなのを見ればわかるとおり、「正義」が「悪」を懲らしめることくらい爽快なことはありません。

快感を得てもいいが、自覚しておいた方がいい

わたしは、「相手への非難、制裁には快感をともなう面があるからヤメロ!」と言いたいのではありません。

「そこに快感を感じる自分の心があることを自覚しておいた方がいい」と思っています。

人は、快感には弱い生き物なので、自分の心身を守るためのものであるはずの「怒り」の感情の発露が繰り返された結果、いつのまにか「怒る」ことそのものが快感になってしまう、ということがあります。

SNSを5分ほど眺めているだけで、そういう人はすぐに目に入ってきますし、これまで出会った人の中にもそういう人は大勢いました。もちろん、自分自身の来し方を振り返ってみても、「そっち側」へ引きずり込まれる誘惑はいくつもありましたし、今もあります。

相手の言動を変えたいのならば、その目的に専念するべきであり、快感を得たいのであれば、快感を得るための行為は他にいくらでもあります。

怒りを発露させるとき、させているときに、「今、自分は快感を覚えているかもしれない」と考えるクセをつけておく方がよい。

被害を受けているときにそこまで考えることは難しいですが、そのときに無自覚であったとしても、後で振り返って自分のそのときの心の動きを検討してみることは有効でしょう。

繰り返しますが、「快感を得ていることが良くない」のではありません。にんげんだもの。

「快感を得ていることを自覚する」ということが重要で、それが自分を暗黒面に堕とすことを防ぐために有効な習慣であると考えています。