「迷惑をかけたくない」「足を引っ張りたくない」と思ってしまう人へ

グループレッスンをしているとたびたび聞くセリフがあります。

「他の方に迷惑をかけたくありません」

「足を引っ張りたくありません」

気遣いは素晴らしいと思いますが、これを聞くと、わたしはちょっと悲しい気持ちになります。

他の方を大切にしている気持ちの表れのようではありますが、一方で、何か冷たいものの言い方だなとも思います。

逆転させて考えてみると、自分がよくできる、あるいは普通にできる分野で初心者と一緒になったときに、腹が立ったりするのでしょうか。「ああ、迷惑だ。ここには来ないでほしい」と思うのでしょうか。(まあ、人間なので、多少はあってもいい感情だと思います)

「いやいや、そんなことは思わない」ということであれば、なぜ自分自身に対してはそのような言葉を発してしまうのでしょうか。他の人よりも、自分自身の価値が低い、ということなのでしょうか。それはなぜなのでしょうか。

わたしの講座に参加する人には、自分のことも他人と同じように大切にしてほしいと思います。

わたし自身にも、自分がほとんどド素人になってしまう場で勉強する機会があります。わからないことが多すぎて引け目を感じてしまうのは事実ですが、「足を引っ張っているかも」とは思いつつも、あまりそのようなことは表に出さないようにしています。

まあ、知識や経験で貢献できない分、楽しむこと、その楽しんでいる姿を見せることが一番の貢献になるだろうと思って、ちょっと開き直っています。“抛砖引玉”の“砖”になってやろうというわけです。

本当に自分がお話にならないレベルであれば、主催者がはたらきかけてくるでしょう。最悪、「ちょっとあなたのレベルでは無理なので……」ということであれば、身を引くしかありません。

でも、現時点でそのようなことを言われておらず、場にいることが許されているならば、自分はそこにいていい人間であるに決まっています。それを判断して場を運営していくのが主催者の責任でもあるわけです。

そもそも、初心者を蔑むのは中途半端にしかできない人、自分は「できる」と思いこんでいる人です。

これは断言してしまいますが、本当にできる人というのは、自分が歩んできた道、そのときそのときの心持ちを振り返る力のある人です。そのような人は、真摯な態度で臨んでいる限り、進歩の途上にある人のことを理解し、共感を寄せることはあっても、それを迷惑に思ったりすることはありません。

他人同士が集まって何かをする限り、能力や経験、取り組み方に差が出るのは当たり前の話です。

「そうは言っても、自信がないものは仕方ない」と思われる方は、せめて見える形で「できる人」を称賛したり、場を良くするために何かしらの貢献をしてみてはどうでしょうか。それだけで、あなたの”価値”はものすごく上がります。

実際にグループレッスンなど、いろいろな場を主催したり運営したりしているとわかることですが、「できる人」だけが場の価値を決めるのではありません。というか、人は結局自分がかわいいので、他の人ができるかどうかなんて、あまり関心がありません。

むしろ、その場を居心地良くすることができるのも立派な価値のひとつです。「その人がいると何か勉強する気になれる」「いてくれると嬉しい」という人は確実にいます。そういう“枠”を狙ってみることだってできるはずです。そして、そういうことができる人が往々にして実力も伸びていきます。

上にも書きましたが、「迷惑をかけたくない」「足を引っ張りたくない」という言葉は、(そのような意図はなくても)「迷惑をかけられたくない」「足を引っ張られたくない」という心情の裏返しだと捉えられかねません。「自分なんて」というのは、一種の悪口です。悪口を聞かされても、あまりいい気分にはなれません。

発音とか、文法とか、語彙とか会話だとかいったことの前に、もう少し自分に寛容になり、許してあげられる心を持つことのほうが、外国語学習には大切なことなのではないでしょうか。特に、日本人にとってはここが学習上のボトルネックになっているような気がしてなりません。

なにしろ、自分と全く異なる生き方、能力、価値観、世界観をもった人たちを受け入れ、その人たちに受け入れられるように自分を変えていく営みが外国語学習なのですから。