縛りがもたらす自由

縛りプレイの2021年12月

今月は、自分にいろいろな制約を課してみました。いわゆる「縛りプレイ」ですね。

明日の記事でも書こうかと思っていますが、「○○しない」という「しないことリスト」のようなものを作りました。

今まで当たり前にしていたことを禁じるものなので、さぞかし苦しくなるだろうと思っていましたが、12月がもうすぐ終わるところまできて感じるのは、意外と窮屈ではないということです。

戒律でがんじがらめの僧侶が自由である理由

これで思い出したことがあります。僧侶として出家した人には、さまざまな制約が課せられます。いわゆる「戒律」というものです。

「なまぐさを食べてはならない」とか「午後に食事をしてはならない」とか、いろいろあって、大変不便そうに感じます。

しかし、タイで活躍されている日本人僧侶のプラユキ・ナラテボー師によると、むしろそれは心の自由を得るためのものである、ということです。

いまこの瞬間に「食べる」という選択と「食べない」という選択があるが、戒に従って「食べない」を選ぶということで、本能的な心の傾向性に従わず、主体的に選択して生きる自由を獲得することになる。

だから守るべき戒律が227項目もあるテーラワーダのお坊さんはそれだけ心を意識化し、心から自由になれる機会を多く持てるという道理ですね。

『悟らなくたって、いいじゃないか―普通の人のための仏教・瞑想入門』プラユキ・ナラテボー、魚川祐司 幻冬舎新書 p.193

これを読んだときは、「ほんまかいな」などと思っていましたが、実際にやってみると、そのとおりかもしれないと思えます。

もちろん、わたしは以前にも自分に様々なルールを課して、それをことごとく破ってきたという前科持ちの身ですから、これがどこまで続くのかはわかりません。

ただ、今のところはむしろ快適に過ごせているので、来月以降も続けていくことになるかもしれません。

命を削るネットニュースの閲覧

ちなみに、以前の記事でも書きましたが、しないことリストのひとつに、「Yahoo!などのネットニュースを見ない」というものがあります。

世の中には「社会人として、世の中の動きを知っておくべき」という常識があります。確かに、世の中で起こる多くの事象は自分とは無関係ではありえませんが、知ったところで何か変えられることは極めて限られています。

正直なところ、新型ウイルスなどの情報も、もうほとほとうんざりしているので、まったく知りたいとは思いません。世間を震撼させるような大ニュースが起これば、きっと身の回りの人が知らせてくれます。

そんな風に考えて、ニュースにはできるだけ触れないようにしていると、余計なことで不安になったり、苛立ったりすることが格段に少なくなりました。

ニュースというのは、メディアという営利企業が商売でやっているものです。商売でやっている以上、わたしたちには本来ならば、その「商品」を受け取るかどうかを選ぶ権利があるはずです。

「見る/見ない」という選択肢があることを忘れて、向こうから一方的に流し込まれる情報を受け取り、時間や感情を空費させる行為は、自分で欲しくもない商品をどかどか買い込んで「お金がなくなった!」と嘆くのと同じです。

時間と感情を空費させられているという点で、お金よりももっと取り返しのつかない、命そのものを削っている行為だともいえます。

というわけで、これからも基本的にはやはりニュースには触れずに生活していこうと思っています。